1924-
第1章
スチール家具の市場創造
スチール家具に
着目した創業者・
田嶋 恩
日本初のスチール製家具の製造販売に取り組んだ東京鋼鐵家具製作所。そのきっかけは1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災にありました。地震の規模はM7.9、最大震度は7、家屋の倒壊とともに甚大な被害をもたらしたのは火災でした。建物の多くは木造で、地震発生時には昼食の準備で火を使う家が多かったことも火災拡大の一因となりました。また、地震による倒壊を免れたコンクリートの建物でも内部の家具や什器は木製であったため、火災により消失してしまいました。これを目にした田嶋 恩は「もし家具類が燃えにくい金属製であったらこれほど大きな被害にはならなかった」と痛感し、日本にもスチール家具を普及させようと決意します。そして長兄である田嶋壱号とともに「東京鋼鐵家具製作所」を創立し、国内初のスチール家具専門工場建設に取りかかりました。1924年(大正13年)のことでした。
販売当初の苦戦と需要拡大
田嶋 恩の長兄・田嶋壱号は1914年(大正3年)に国内初のスチールサッシ開発に成功し、1920年(大正9年)に「東京建鐵」を創立しました。田嶋 恩はこの東京建鐵で技師としてスチール製品の開発や研究に携わりノウハウを蓄積していきます。この経験がスチール家具を普及させる決意に結びついたことはいうまでもありません。田嶋壱号の協力を得て「東京鋼鐵家具製作所」を創立し、弱冠24歳で社長となった田嶋 恩ですが、スチール家具製造に必要な機械や設備などはまだ国内には存在しませんでした。このため海外の文献や輸入見本を参考に大型ベンダー、溶接機、塗装装置など、当時としては最新鋭で大規模な設備を米国から輸入、1924年(大正13年)2月頃から製造を開始しました。
なお、重量が6tもあった大型ベンダーを工場に搬入する際は、最寄り駅からの1.5kmを交通の止まる深夜に何夜もかけ鳶職がコロを使って牛に曳かせるなど、トラックなど無い時代ならではの苦労もありました。当初は多少とも市場性の見込める片開き書庫、観音開き書庫、簡単な椅子、証券箱などを製造していました。しかし、スチール家具は木製より価格が高く、見た目も触感も冷たいなどよい印象をもたれず、なかなか売れませんでした。そんな中、震災復興のため大蔵省(当時)から片開き書庫1万個の受注に成功したことが販売にはずみをつける契機となりました。また、日本の大陸政策により、当時の朝鮮や南満州の図書館や出先機関からの大口案件もあり、田嶋 恩が自ら朝鮮総督府などにたびたび出張し、受注活動を行うことで売上を伸ばして行きます。1928年に業務拡大により「東京鋼鐵家具製作所」を「大東工業株式会社」に組織変更。この頃にはスチール家具の重要性が一般にも認識され、さらに重要も伸びてきました。その後、日本が国を挙げて戦時体制へと傾倒していた1939年に東京測器株式会社を設立。軍需工場として接収されたほどの高い板金加工技術を誇っていました。
大正13年2月
創設者 田嶋恩が東京・荒川区に東京鋼鉄家具製作所を創設。国内で初めてスチール家具の生産に着手。
昭和3年3月
創設者 業務拡大により「東京鋼鐵家具製作所」を「大東工業株式会社」に組織変更。
昭和14年12月
東京測器株式会社を設立。
1949-
第2章
スチール棚市場の成長
この時代は、スチール棚の成長期であると同時に、日本ファイリングの大いなる成長期でもありました。
棚の専門メーカーとして
第二次世界大戦後、発足したての人事院で全国公務員記録収納用ファイリング・キャビネットの大量発注を行うことが決定しました。この情報を得て、田嶋 恩は1949年(昭和24年)にファイリング・キャビネットの販売会社「日本ファイリング株式会社」を設立。その後順調に受注を伸ばし、その2年後には待望の自社生産に着手します。その際、以前から専門メーカーの重要性について考えていたこともあり、事業の照準を「棚」に合わせました。折しも時代の流れは大量生産・大量販売になり、棚は大量生産に向く製品でした。
「製造業でつくった製品を格納する倉庫では立体的に収納できる棚が大きな役割を果たす」という確信もありました。田嶋 恩は高品質の製品を合理的に製造し、適正な価格で販売することを重視、また専業メーカーの社員は少数精鋭がよいと考えていました。ねらい通り、品質は高く評価され、さまざまな製品を納入しました。高品質で長く愛用される製品を適正価格で販売するという思想は現在も日本ファイリングに受け継がれています。
森ヶ崎工場の建設
「日本ファイリング株式会社」と改め再起を図りましたが、戦災によって生産設備の一切を失っていたため当初は委託生産に頼らざるをえませんでした。
全社をあげて販売活動に注力した結果、人事院からのファイリングキャビネットの安定受注や国会図書館をはじめとする書庫設備の受注などが実現し、田嶋恩社長は「工場再建の機は熟した」と判断します。そこで社長自ら全国を飛び回り、旧軍需工場が保管していた米国製ベンダーなどの国有賠償機械を幾多の困難の末に多数入手、1951年(昭和26年)に東京都大田区に当時としては第一級の設備を備えた森ヶ崎工場を設立し、ようやくスチール製書架や物品棚の本格的な生産体制を築くことができました。
なお、これらの設備を入手した1951年(昭和26年)10月4日は日本ファイリングの創立記念日と定められました。当社の発展の礎を築いた米国製ベンダーは現在も茨城工場の正門にモニュメントとして展示されています。日本経済の大きな転機となる出来事が発生します。
松戸工場の建設
1953(昭和28)年には朝鮮戦争も終わりますが、日本は国力が回復し、戦後復興の時期から新たな高度経済成長の時代が始まろうとしていました。スチール棚の売上は景気上昇に比例して伸長します。国力が盛んになると教育文化が発達し、大学が増え図書館が建ち、ビジネスが拡大すれば文書や資料が多くなり書架の需要が増え、また工場や物販が活発になれば資材、製品、商品の流通も盛んになり、倉庫設備も大きくなり、物品棚の需要も伸びていきました。
生産量は順調に増加し、森ヶ崎工場では隣接工場を買収し工場の拡張を図るものの、生産量の急激な増加に追いつくことが困難なほど工場は手狭になったため、千葉県松戸市で新たな工場の建設が始まりました。
そして1962(昭和37)年4月には新松戸工場が竣工し、森ケ崎工場の総移転となりました。
松戸工場移転後は生産の合理化に加え、当社発展の原動力となる製品(スタックランナー、スカイラックシステム)を次々と市場に投入しました。積極的なスチール棚の啓蒙活動、全国的な販売網の整備(支店・営業所、特約店の設立)など、全社的尽力により業績は着実に伸びていきました。「オリンピック景気(1962〜64年)」「いざなぎ景気(1965〜70年)に代表される「高度成長期」という時代背景も、製品への需要、業績の進展を強力に後押ししました。
昭和24年5月
商号を「日本ファイリング株式会社」に変更。
昭和26年10月
国有賠償機械の使用認可を受け、スチール製書架・物品棚の本格生産体制を築く。
昭和30年11月
大阪支店開設
昭和34年6月
名古屋支店開設
昭和36年12月
スチール家具の研究開発と幾多の発明考案の実績著明の功により田嶋恩紫綬褒章を受章。
昭和37年5月
福岡営業所開設。
昭和37年6月
松戸工場完成、移転。
昭和40年5月
札幌営業所開設。
薬品管理棚「ライトビン」を発売。
昭和42年3月
移動棚「電動スタックランナー」を発売。
昭和43年2月
仙台営業所開設。
昭和43年4月
立体自動倉庫「スカイラックシステム」を発売。
昭和46年8月
技術情報誌「PD」(現在の「Better Storage」)を創刊。
昭和49年10月
広島営業所開設
1975-
第3章
保管棚から保管システムへ
茨城工場の建設
1970年代に入ると当社の生産量はさらに拡大し、松戸工場が手狭になってきたこと、また工場周辺の宅地化が急速に進んだことなどから工場移転を決定し、移転先を探しました。諸条件を検討の結果、茨城県常総市(当時は水海道市)に新設された大生郷工業団地に移転することが決定しました。総延床面積は松戸工場の同約2.6倍で、多品種少量生産に対応でき、騒音、振動、ばい煙に配慮した設備を備え、将来の増設も視野に入れたレイアウトとしました。生産規模は稼働直後から松戸工場の30%増でした。
加工現場では数量の多い製品のライン化、加工範囲の拡大による付加価値の増大、多品種少量や特型に対応可能な汎用性のある設備も導入しました。また高性能な専用自動工程も採用されました。塗装設備では電着塗装と静電塗装の2ラインを設け、電着塗装ではディッピング方式(ひたし漬け)により補正が不要となり、塗装の膜厚が一定となりました。また電着塗料には当時国内では類を見ないポリエステル塗料を採用しました。こうした最新の設備への投資が、より高品質な製品の製造に結びつきました。
その後もスタッカークレーンの組み立ておよびテストが可能な第2工場の新設、電着塗装ラインの増設や大量脱酸処理プラントの開設、2015年には静電塗装設備に代わり粉体塗装設備を導入、2019年には最新鋭のレーザー加工システムを導入など、茨城工場は進化を続けています。
製品バリエーションとラインナップの充実
この時代ユーザーニーズの多様化により、現在でも主力製品となっている製品が多数リリースされました。(リリース製品:ハンドル式スタックランナー、ピックラック、コンテナサーバーシステム、ビブリオ書架、デジタル表示システム「ピックパル」、プッシュバックラック、ニューマスルーなど)
柏技術センターの開設
1985年9月、新たに千葉県柏市に柏技術センターを開設しました。当社が電動移動棚の市場へ参入したのは1967(昭和42)年のことであり、1971年には国内トップクラスの全棚駆動方式の電動スタックランナーの開発に成功しています。物流部門においては1968年に立体自動倉庫「スカイラックシステム」を開発し、1972年にはハイシフターシステムを出荷して市場を主導する立場となりました。さらに1980年代に入ってピッキングシステムや仕分けシステムなどの爆発的な市場拡大が予想されました。
それまでの森ケ崎工場以来のスチール加工や塗装だけではなく、新たに電気制御やプログラミングなどの技術者が開発スタッフに組み込まれるようになってきました。それら技術者を分散させることなく一箇所に集約させることで、開発効率化や技術力向上が柏技術センター開設の目的でした。また柏技術センターの開設が、当社がラックメーカーから保管システムメーカーへ羽ばたく大きなきっかけとなりました。
昭和51年4月
移動棚「機械式手動スタックランナー」を発売。
昭和52年5月
流動棚「ピックラック」を発売。
昭和52年7月
移動棚「フロントランナー」を発売、業界初の5シリーズのラインナップ完成。
昭和52年10月
国内で初めて鋼製物品棚のJIS規格認可(JIS S1040 1種)。
昭和52年11月
自動出納システム「コンテナサーバーシステム」を発売。
昭和54年8月
横浜営業所開設。
昭和54年9月
国立防災科学研究センターにおいて、大規模な保管設備の耐震実験を実施。
昭和56年6月
デジタル表示システム「ピックパル」を発売。
昭和56年9月
開架システム家具「ビブリオシリーズ」中、7種類がスチール棚として国内で初めてのGマーク(グッドデザイン)を受賞。
昭和57年8月
茨城県常総市に新工場完成、移転。
昭和59年1月
パレット流動棚「ニューマ・スルー」を発売。
昭和60年9月
柏技術センター開設。
昭和63年6月
パレット流動棚「プッシュバックラック」を発売。
1991-
第4章
逆境からの再生
上場と上場の廃止
当社は1991(平成3)年に上場し、2007年に上場を廃止しました。上場を経営方針として取り上げたのは1987年の第1期中長期経営計画からでした。上場することにより市場からの資金調達が容易となり、企業のイメージアップも期待されました。
当初の予定どおり1991年12月に上場に成功し、その後数年は売上げを拡大していくことができました。しかし、90年代半ば以降からは売上げの低迷が続き大胆な経営方針の転換が求められました。
上場の最大のメリットは市場からの資金調達でしたが、当社はもともと充分な資産を有していたこともあり、このメリットを充分に享受することはありませんでした。反面、上場の維持には主幹事証券会社への支払いなど経費がかかるうえ、経営情報の開示など繁雑な手間が必要でした。そこで当社は上場廃止を決定し、MBO(Management Buyout)により株主から株を買い戻しました。
上場廃止により、当社はスピーディな決断と実行力を取り戻すことができ、それまで広げすぎていた市場・業種や製品ラインアップの適正化に着手したのでした。リーマンショックや3.11東日本大震災など未曾有の出来事が続き、他の企業が疲弊していく中でも、売上げを落とすことなく緩やかながら成長を維持できた基盤はここで整いました。
大量脱酸処理プラントの開設
酸性紙の劣化は図書館や企業において大きな問題となっています。図書館などの紙媒体との関わりの深い当社では「知的財産を後世に残す」という社会的に大きな役割を果たすため、東京農工大学との産学協働により、DAE法(乾式アンモニア・酸化エチレン法)の研究開発を手がけました。
DAE法はガスによる中和処理で、図書・資料を傷めることなく内部まで均一に処理し、3〜5倍の寿命延長を実現することができます。
1998年8月、茨城工場敷地内に脱酸処理プラント(鉄骨造平屋建、建築面積443㎡)を開設し、本格的な事業化に向けて試験運用を開始、翌1999年1月には完了し、正規に図書・資料の大量脱酸処理事業を開始しました。当社では25年も前からSDGs関連の事業に取り組んできました。2023年3月現在、DAE法による脱酸処理の実績はのべ50万冊に及んでいます。
柏技術センター新社屋建設とLAラボの開設
1985年に開設された柏技術センターは顧客ニーズの変化や多様化により年々人数を増員していき、1995年12月には新社屋を竣工しました。また2011年3月には柏技術センター内に当社の技術力を結集したショールームを開設し、図書館の自動化を検討中で実際の製品を見学したいと希望する関係者を招いてデモンストレーションすると同時に研究施設としての機能も持たせることにしました。この「図書館自動化研究室」の正式名称は社内でアイデアを募集するなどし「LAラボ(LibraryAutomation Laboratory)」に決定しました。
現在の柏技術センターでは、物流作業支援システムや自動化書庫システムといったシステム製品の開発・設計・導入を行う部門、製品開発部門、更にはメンテナンス業務を担う(株)日本ファイリングテクノが業務を行っています。開発・設計部門では、機構部の設計、モーターなどの動力選定やその制御設計、表示装置設計、またそれらを統合制御する管理機ソフトの設計などを行っています。これらの多くは、社内で設計しており、茨城工場で製造している製品群に高い付加価値を与えています。製品開発部門では、茨城工場で製造する製品やシステム製品の新製品開発・改良を行っており、特にシステム製品では、同じ建物内の設計部門と協力し、お客様のニーズに対応した製品を開発しています。
平成3年11月
株式を店頭市場に公開。
平成4年5月
大宮営業所開設。
平成4年12月
調湿ボード(HCボード)を発売。
平成6年8月
水平式パレット流動棚「ニューマ・スルーⅡ」を発売。
平成7年3月
自動化書庫「オートライブ」を発売。
平成7年9月
メンテナンス会社「株式会社日本ファイリングテクノ」設立。
平成7年11月
電動スタックランナー、ハンドル式スタックランナーが財団法人日本品質保証機構(JQA)の適合認定を取得。
平成8年10月
「ビブリオシリーズ」が「ロングライフデザイン賞」を受賞。
平成11年1月
図書・資料の大量脱酸事業を開始。
平成11年3月
ISO 9001認証取得。
平成12年1月
無線LANピッキングカートシステム「パルカート」を発売。
平成12年5月
竹製書架「ETS」と「EBS」を発売。
平成13年11月
デジタル表示システム「ピックパル」に、BOU+5色表示方式を新たにラインナップ。
平成13年12月
ISO 14001認証取得。
平成15年4月
新型「ビブリオシリーズ」を発売。
平成16年4月
中・小規模図書館向け自動化書庫「オートライブミニ」を発売。
平成17年1月
「UE型多用途物品棚」を発売。
平成18年10月
新型「スタックホーバー・ライトビンホーバー」を発売。
平成18年11月
「UF型多用途物品棚」を発売。
平成19年5月
経営者の自己責任による経営戦略を迅速に遂行する体制を確立するため、MBO(マネジメント・バイ・アウト)を行い、上場廃止。
平成19年11月
「自動返却仕分機」一号機を納入。
平成22年8月
デジタル表示システム「ピックパル」無線5色表示器を発売。
平成23年3月
図書館自動化研究室 LALaboを開設。
平成26年6月
調湿ボード(New HCボード)を発売。
平成26年7月
デジタルアーカイブソリューションへの取組み開始。
平成26年11月
「UG型多用途物品棚」を発売。
2015-
第5章
保管システムの枠を越えて
自動化、省人化、標準化、DXへ
少子高齢化による慢性的な人手不足やDX化への対応、コロナ禍や地震による生活の変化、持続可能な社会実現に対する世界的な関心の向上など、近年需要がまた変化してきています。それらに対応するために当社でも「図書・資料の殺カビ処理サービス」「制震ハンドル式スタックランナー」「トラックドライバー受付システム」「倉庫管理システム(LOGI-CONDUCTOR)」などをリリースしています。
日本ファイリングは
2024年2月をもちまして、
創業100周年を迎えました。
関係するすべての皆様に心より
感謝申し上げます。
これからも社会とお客様に
貢献する企業であり続け、
次の100年に向けて
成長し続けられる企業をめざして、
挑戦を続けてまいります。
平成27年1月
粉体塗装設備を茨城工場に導入。
平成28年7月
「電動スタックランナー フォルテ」を発売。
平成29年3月
図書・資料の殺カビ処理サービスを開始。
平成29年11月
「制震ハンドル式スタックランナー」を発売。
平成30年4月
「ドライバー受付システム」を発売。
平成30年10月
「カゴ車管理システム」を発売。
平成30年10月
台湾に海外初の自動化書庫「オートライブ」を納入。
平成31年4月
「トラックバース管理システム」を発売。
平成31年
最新鋭のレーザー加工設備システムを導入。
令和3年
「水平式プッシュバックラック」を発売。
令和4年
「キャスター付きデジタル仕分けシステム(C-DAS)」 を発売。
令和5年
「倉庫管理システム(LOGI-CONDUCTOR)」 を発売。
令和6年2月
創業100周年